半年のあいだ、定期的に続けてきたふたりのおしゃべりは、これで一区切りです。最後にたどり着いたのは、誰にも頼まれていないのに続けてきたことや、やらなくてもいいはずなのに、自然と引き受けてしまった役割のこと。それを「愛」と呼んでもいいんじゃないか、そんな話をしました。
「あくまでサードプレイスなので」と言わないために
「サードプレイス」って、カフェとかバーみたいな「自宅と会社以外の第3の居場所」っていう文脈で使われてきた言葉あるじゃない。
ワープホールも、まちの人にとってのサードプレイスとして語られることがあるし、platform3も、オルタナティブな居場所みたいな見られ方をすることがあると思う。
そうですね。
自分でも強く意識してきたわけじゃないけど、どこかで「そういう場になれたらいいな」って思ってたところはあるのね。
でも最近、その「サード」っていう言い方にちょっと引っかかる感じがしてきてるのね。
というのも、そもそも家とか職場とか、生活の基盤になる場所そのものが、いまの社会だとそんなに安定してない気がしていて。
なるほど。「ファースト」と言える場所の安定感自体が揺らいでるんじゃないかっていう。
そうそう。そんな状況の中で、もしワープホールを「ファーストプレイス」みたいに感じてくれる人がいるとしたら、うまく言えないけどその気持ちにもちゃんと応えたいなって。
そう考えると「サード」として振る舞っている限り、どこかで責任を引き受けきれてない感じがある。
「サードプレイス」って言葉、便利だし、やってる側からするとだんだん口に馴染んできますよね。
元の概念をたどれば、もっと厚みのある言葉だと思うんですけど、一般的にイメージされる「サードプレイス」って日常の中でちょっと息抜きする場所、くらいのニュアンスで。
本当に困ったときに駆け込む場所っていうイメージはあんまりない気がします。
本当にそう。重たい場にしたいわけじゃないんだけどね。
場を運営するって責任はあるけど、来てくれる人に提供できるものも思っている以上にあるかもしれなくて。
その全部を含めて考えるなら、あえて「サード」って言わない姿勢も大事だなって。
場を持つって、結局は人が集まるっていうことですよね。
そのときに「僕たちはあくまでサードなので」っていう、ある意味すごく謙虚な立ち位置でいるのって、ちょっともったいない気もして。
謙虚でいるのって、正直かなり楽じゃないですか。「謙虚にしてれば、誰にも何も言われないだろう」みたいな。
いまの話を聞いて、もしかしたら「楽をしたかった自分」に気づいたのかもしれない。
ワープホールの存在意義を聞かれたときも、「まちの皆さんと一緒に考えていきたいです」って言うとふわっと収まる。それは嘘じゃないし、実際そうなんだけど。
でも、どこかでちゃんと「こういうことをするための場所です」って言い切って責任を引き受けていく勇気も必要だ。
「愛していい」という許可証
突然なんだけど、最近、人間は「人間を愛したい」と思ってる生き物なんじゃないかってことをずっと考えていて。
おお、いきなり大きな仮説だ。
いま、いろんなプロジェクトの渦中にいて、同時にいろんな人の意見を聞かなきゃいけない状況が続いてるんだけど。気づくと自分は人の「真ん中」に立ってることが多くて。
分かる。黒川さんは、真ん中にいてくれると助かる人だなって思います。
人の間に立つのはやっぱりドキドキする。認識のズレが見えたり、ヒヤヒヤすることも多い。
それでも、その役割をやめたくない自分もいる。なんでだろうって考えたときに、評価されたいとか役に立ちたいよりも、人との関係の中で、シンプルに誠実でいたい。
悩んでることを一緒に考えたり、迷ったりしたい。その感情はどこに分類できるのか考えると「役に立ちたい」より「あ、これって愛情だな」って。
エーリッヒ・フロムの『愛するということ』に、「愛は技術だ」みたいな話があったと思うんだけど。
愛するって、相手の気持ちにちゃんと向き合ってその人が何を考えているのかを理解しようとすることなんじゃないかなって。
ワープホールをやっているのも別にまちの人から頼まれてるわけじゃない。余計なお世話かもしれない。
でも「あったほうがいいでしょ」って、本気で思ってるところがある。
たとえば「まちの小学生にとってワープホールがある生活と、ない生活、どっちが楽しい?」って考えたら、絶対あったほうがいいと思うんだよね。
それは、自分の活動を正当化したいというより、まだ会ったことのない小学生たちに向けた愛情って言ってもいいんじゃないかなって。
黒川さんの愛、だんだん伝わってきました。
そんなことを考え続けてたら、みんな「愛したい」っていう感情自体は持っているのに、「愛してもいい」っていう許可がないと、愛しちゃいけないって思い込んでるのかもしれないって思って。
恋人やパートナーは、愛情を向けていい対象として分かりやすく「許可」が出てるけど、知らない小学生を愛していいっていう許可はどこからも出ないじゃない。
だから私は、無許可で彼らを愛してるっていう状態なんだと思う。
「愛していいですよ」っていう前提がある関係って、意外と少ないかもしれないですね。
みんな心のどこかで、その許可を求めてるんじゃないかな。推し活とか、まさにそうだと思うし。
そう考えてると、たん君も、けっこう無許可で愛情を外に出してるタイプなんじゃないかな、と。
愛という行動原理
最近、友人ふたりと似たような話をしていたんです。仮にAさん、Bさんとすると「僕とAさんって、ちょっと似てるよね」っていう流れになって。
そのときBさんから「ふたりとも、うっすらみんなのことが好きなところが似てる」って言われたんですよ。
Bさんは「私は基本的に人間のことが嫌い」と、わりとはっきり言うタイプで。
人は自分を傷つけてくるかもしれない存在だと思っているから、人間関係も、まずは「この人は大丈夫かどうか」を見極めるところからはじめるらしいんです。
一方で、僕とAさんは、誰のこともうっすら好きというか。
初対面の人でも、つい信用しちゃったり自分から踏み込んでいったりするところがあるよねって言われて。ああ、なるほどなって思いました。
面白いなあ。「うっすらみんな好き」って、めちゃくちゃいい表現だね。
もしかしたら、いまの社会ではBさんみたいな感覚の人のほうが多いのかもしれないなって思っていて。
ドライな人付き合いを好んだり、人間関係のアクションを自分から起こすのが苦手だったり。
でも、黒川さんが言ってたみたいに、そういう人たちも実はどこかで「つながり」を求めてるんじゃないかな、とも思うんです。
だから「うっすらみんなのことが好き」な人。黒川さんの言葉で言えば「人を愛したい人」って実は必要なんじゃないかって。
みんな「ここまで踏み込んでいいのかな」って悩んで、立ち止まっているだけで。
そういう人の周りには自然と人が集まって、もちろん揉め事も起きるけど、ときにはすごくありがたがられたりもする。
結果として黒川さんみたいな仕事が生まれてるんじゃないかな、って思いました。
そう考えると「みんな実は、愛したい」っていう話は、かなり的を射てる気がします。
いやあ……そうなんだよね。本当に、そう思う。
platform3を始める前に、黒川さんに相談しに行ったときも2回くらいしか会ったことなかったけど「黒川さんは、僕たちのことを邪険にはしないだろうな」って、なんとなく思ってました。
おわー!ありがたい。
ただ、話しながら思ったのは、自分が聖人君子みたいな人間なわけでは全然なくて。
でも「いい人でありたいな」っていう気持ちは、たしかにあるんですよね。
いい人でいることに、ちゃんとコストを払いたい、っていう感覚に近いかもしれない。
正直、僕はせこいし、ずるいし、小賢しいところもあるから、いい人でいるのはけっこう難しいんですけど。
いま聞いてて、思い出した本があって。上坂あゆ美さんの『地球と書いて〈ほし〉って読むな。』。
その中で、「人生って、いい人であるために頑張る以外に、することなくないですか?」ということが書いてあって。それがすごく刺さったんだよね。
おもしろい…。
私もそれを読んで、「確かにそうかも」って思った。
それ以外、あんまりやることないわ、って。
みんな、どこかではそう思ってる気がするんですよね。ただ、ちょっと斜に構えちゃったりしてるだけで。
そうだと思う。
さっきのBさんみたいに人嫌いとか、人と関わるのが苦手とか、不安のほうが大きい人もいると思うけど、それは「人と関わりたくない」って話じゃない気がするんだよね。
もっと手前のところで、「愛したい」っていう気持ちは、みんな持ってるんじゃないかな。
決めつけるのはよくないけど、人のことをうっすら嫌いな人ほど、愛情を裏切られるのが怖くて、そういう態度を取ってるだけだったり。
その「怖さ」はすごく健全な反応だと思うし、むしろ、愛したいがゆえに怖がってる感じもする。
プロジェクトで意見がぶつかったときに、私のところにこっそり相談しに来てくれる人たちも、「自分が愛を注いでいる場所を奪われそうで怖い」って感じている人が多い、そんな気がするんだよね。
人間だから、場面ごとにいろんな感情や行動が出てはくる。
けど、その根っこにある「愛」みたいなものを、背景に感じられるとなんか安心する。
仕事でも、ほかの場面でも、そこに気づける人でいたいなって改めて思いました。ありがとうね。
(おしゃべり五夜目 おわり)
https://shipyard.design/exhibition/article05.html